せでぃのブログ

ブログ初心者おいどんのどうでもいい愚痴やどうでもいい愚痴やどうでもいいマメ知識などを披露するチラシの裏です。

神待ち

ネトゲの知り合いに言われて思った。「希望がなくとも生きていける。」状況とは絶望以外の何者でもないんじゃないか?


今の仕事は滅茶苦茶辛いけど死にたい理由はそこにはなくて、何も趣味がない何も感じない何も作らない何も残さない何も交流しない何も得られない緩慢で味気の無いケレンミだけのニッカウヰスキーの対局に居るような荒れ果てた荒野という人生を思って死にたいと心底思うんだ。
だからかな。全く何を打っても響かない。本だろうが漫画だろうがはてブだろうが会話だろうが、最近は、夜勤明けに読む雑誌のように右から左へと全ての情報が流れていく。老いたからか元来の性格なのかたまたまそういう心境だからなのかはわからない。わからないけど、欲しいものが何一つないし。欲しいと思ったものですら、手元にあると色褪せて見える。


過去を振り返ることが多くなって、面白いと思えるものはそれだけなんだけども、欲しいものはそういうベルビア色の思い出の彼方にあるものだけで、コダクロームの現実は砂漠の一握りの砂でしかないんじゃないかと思ってしまう。脳内の手の届かない世界にしかガンダーラは無くて、神待ちするだけ無駄なんじゃないのかと思ってまた絶望してしまう。
もし仮に長生きしたとして、もっと年を取ってから今を振り返ってみて、懐かしい面白い良かったと思える人生が歩めているんだろうか。いや、いない。いないんだけど、打開策も全く思いつかないし、打開することすらどうでもいいと思う。蟻の戸渡しや屏風岳、不帰(かえらず)の滝といった畏怖の念を抱かせる絶望の地形すらない不毛な絶望の地平だけが広がっている。


今年の仙台の夏は無駄にムシムシしてて、朝な夕なの明るい街並みは細野晴臣トロピカル三部作のような東南アジアの夜の喧噪と朝の静寂と昼の気だるさを彷彿とさせる、近年希に見る思い出深い一年になりそうではある。今年1歳、2歳になる子供たちの記憶にはずっと残るような味わい深い夏だったろう。
だけど、僕には何1つ残さない夏になりそうだ。