- 作者: グレン・E.マーコウ,Glenn E. Markoe,片山陽子
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 2007/11
- メディア: 単行本
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フェニキア人というと古代ヨーロッパで出てくるセムハム系語族*1の代表とも言える地中海貿易でぶいぶい言わせた民族です。高校世界史では、その後、カルタゴ滅亡まで国家らしい国家も出てこず、気付けばハンニバルの名前を残して滅亡しているのです。アルファベットの起源となるフェニキア文字を持ちつつ、言葉も文明も失ったフェニキア人とは何者なんだろうと思って手にとってみた次第。
紀元前1200年前からカルタゴ滅亡まで何をしていたのか
フェニキア人は、ウガリト、アルワド、ビュブロス、シドン、テュロス、キュプロス島を中心に、レヴァント地域の一部、地中海の東岸を支配していた。
フェニキア人はかなり強い都市国家としての性格を持った文明・民族で、エジプトやヒッタイト人、イスラエル王国、アッシリア、ペルシアなどになんどもなんども征服されつつ根絶やしにされることなくアレクサンドロス大王が来るまでそれぞれの都市ごとに交易・商売・反乱・戦争の歴史を経てなんとか生きながらえていたようです。カルタゴとテュロスが袂を別つのは紀元前500年あたり、ハッキリした経緯はわかっていない。フェニキア人は一貫してわかりやすい版図を持ってないのよね。
征服された際には、その時々で友好を結んで独立を維持できたり大使を派遣されて管理されたりしていました。主にレバノン杉と銅の工芸品、そして建築・加工職人が売り物だったようです。
カルタゴまで植民地を広げたのは紀元前800年前後。イスラエル王国の時代、テュロスの主導で植民が行われた。まぁ古すぎるし史料も少ないしで、これまたハッキリしない。"海の民"襲来以降にウガリトやシドンが没落し、テュロスが商業的に隆盛を極めた時期にほかの植民地と一緒に建設されたのではないか、と推測されています。
行政は世襲の君主制で、都市ごとに君主がおり、互いに商売敵であったと考えて良さそう。面白いことに、行政府のような建物はフェニキア人のどの都市からも見つかっていないらしく、青空政治だったのかもしれません。
フェニキアとカルタゴは何が異なるのか
カルタゴには、テュロスの都市守護神メルカルトの神殿があったことから、間違いなくフェニキア人による植民地と断言できます。しばらくはテュロスに対して僅かな税金を納めていたようです。しかし、紀元前500年あたりを境に、レヴァントのフェニキア人都市との交流が少なくなり、政治体制や軍隊、貨幣やポエニ語と全てにおいて独自の発展を見せるようになった。
東西に分割されたローマ帝国のように、西方のカルタゴと東方のシドン・テュロスは分けて考えた方がわかりやすい。
古代エジプトやヒッタイトを駆逐した"海の民"とは何者か
フェニキア人を始めミケーネ文明にまで脅威を与えた出来事ですが、この本ではわかりませんでした。
前1200年のカタストロフ - Wikipedia
フェニキア人とユダヤ人は同族か異種族か
フェニキア人は技術屋・商人として尊敬を集める一方、あこぎな商人・金の亡者として嫌われる側面もあったらしい。これは、どこぞの民族のイメージと被るのではないか。そう、ユダヤ人ね。語族としてもアラビア人として同じ語族に分類され、居住地域もレヴァント中・北部とカナン(ドルからイェルサレムあたり)とほぼ被っている。
しかし、イスラエル王国建国の際、フェニキア人から友好関係を結びはしたが隷属せず同化もせず対等な同盟関係であったこと、フェニキア人の宗教においてアシュタルテやバアル、都市守護神メルカルトなど複数の神を崇拝していたことを考慮すると、ユダヤ人とは別な民族だと考えていいと思います。
*1:現在はアフロアジア語族という分類名らしい